別府という地名について

別府市市制100周年ロゴ

最初の記事はクラフトハウス別府127がある場所、大分県別府市について地名の由来という切り口から紹介したいと思います。

この記事を書いている2024年なんですが、実は別府市市制100周年とのことでして、市になって満100年となった今年は100周年記念行事を行なってます。

別府市市制100周年ロゴ
別府市市制100周年ロゴ

別府市となったのは実はちょうど100年前の1924年(大正13年)の4月1日だそうです。

大正時代といえば「鬼滅の刃」が舞台となっている時代ですね。

鬼滅の刃の聖地の1つとして別府市内にある八幡竈門神社があるのも魅力的です。

話を戻しますが100年前に町から市に昇格した別府市ですが、この別府という言葉はどのようにつけられたのか調べてみました。

まず漢字に着目してみましょう。

別府の「別(べつ)」は、「分ける」や「区切る」という意味を持ち、「府(ふ)」は「水辺」や「湿地」を指します。

まず「別(べつ)」の字ですが、十文字原(別府サービスエリア付近)を超えるとすぐ向こうは宇佐市(旧豊前国)になるので分ける、豊後国と豊前国を分ける場所という意味から「別」の文字は適切ですね。

次に「府」ですが、別府は言わずもがな温泉地で有名なので「水辺」や「湿地」がその昔からたくさんありましたのでこちらも漢字の通りの地域を指していることを表しています。

次に言葉の変化によって別府になった説がありまして、古くは荘園時代(※)に中央貴族(今でいう政治家みたいな存在)が管理していた土地を開墾した際に証明する言葉として「別符(べっぷ)」と呼んでいたそうです。

※荘園時代とは奈良時代(7世紀〜8世紀)から平安時代(9世紀〜12世紀)にかけての時代です。

その別符という言葉が、後に「別府」という地名に変化したした説があります。

この別符とは1000年も前の貴族の私有地を開墾すると土地がもらえるというシステムだったみたいで、簡単にいえば偉い人たちの土地を開墾したらもらえるみたいな感じですかね。

この別符という漢字から別府へ変化したことについて考えてみます。

その理由としては、文字の表記や発音の違いが挙げられまして、別符という単語は1000年前のシステムで使われていた言葉でして、そのような時代の日本語においては、文字の表記や発音に一定のルールがなかったため、地名や人名が異なる表記や読み方を経て変化していったことがあります。

これが、「別符」という地名が「別府」に変化した一因と考えられます。

また、地域の発展や文化の変化に伴い、地名も新しい意味や価値を持つようになった可能性もあります。

「別府」という地名は、「別符」の語感や意味を受け継ぎながらも、地域の特徴や魅力をより良く表現するために採用されたと考えられます。

さらに、現在の別府市地域は「朝見郷(あさみさと)」という地名で呼ばれていました。

朝見といえば八幡朝見神社がある別府市南部にある地名で、そこが起源みたいですね。

朝見神社本殿と朝日
朝見神社本殿と朝日

この呼称が使用された時期は特定されていませんが、こちらも荘園時代(奈良時代〜平安時代)に呼ばれていたと考えられます。

つまりタイムラインとしては朝見郷→別符→別府になるんですかね。

地域の歴史や文化を反映した地名の変化は、その土地の重要性や人々の生活の様相を垣間見ることができる貴重な情報源です。

いずれにせよ、別府市の名前の由来は、古代の地形や自然の特徴に関連しており、その歴史や文化を感じさせる名前として受け継がれています。

余談ですが全国各地に別府という地名がたくさんあるのでそれぞれ理由を調べるのもおもしろいですね。

※ 全国にある別府を集める記事もそのうち書きたいです。(笑)

また別府の町も現在の市域になったのは昭和時代で、変化がたくさんあります。

明治21年(1888年)の市町村制当時の別府市(当時は別府村)は、2024年現在では大分県日出町しか属していない速見郡に所属となったようです。

市域もこんなに広くなく現在の別府市市域には別府村・浜脇村・石垣村・御越村(亀川)・朝日村・南端村があったみたいです。

そこから別府村と浜脇村はそれぞれ別府町、浜脇町になり、石垣村(別府観光港〜別府IC周辺)・朝日村(鉄輪温泉周辺)・御越村(亀川駅周辺)・南端村一部(アフリカンサファリ周辺)を昭和時代に合併して今現在の別府市に至ったとのことです。

ちなみに100年前に別府市に昇格した当時はまだ現在の別府駅周辺(別府町)と東別府駅周辺(浜脇町)のみが合併して別府市を構成してました。

このように別府市のタイムラインを見ると地名の由来、変化など様々なことが起こっていておもしろいですね。

別府いいにゃん